黒翼の住人



 序章 黒翼のはえた語りべ

 濃い緑色に濁った雲が、満天を埋めている。
それは頂きに君臨していた月が、ようやく傾き
始める時分であった。夏の短夜はどこへやら、
私は、警察署の屋上の欄干に止まり、漆黒の翼
を脇の間にしまい込み、いつ明けるとも知れぬ
東の空を眺めていた。地平線に並ぶ山脈を越え
れば、慈愛と安らぎ、生命力に満ちた朝がある
に違いない。闇を払う曙光が射し込めば、少し
は『奴ら』も大人しくなるだろう。
 眼下に広がる街は炎に包まれ、黒煙が危険を
知らせる狼煙のように、空を目指して立ちのぼ
っている。ときおり、低く押し出すような呻き
声に混じって、絹を裂くような悲鳴が暗澹とし
た天空まで跳ね上がり、沈むように消えていく。
二日前までは頻繁に聞こえていた銃声も、今で
はもう、ほとんど聞こえなくなってしまった。
 私は、背後に横たわっている二人を見返した。
ラクーンポリスステーションの屋上、固いコン
クリートの上に、その二人はいた。決して放さ
れまいと、お互いの体を固く抱擁し、共にこめ
かみから血を滴らせて、眠っていた。決して、
悩乱の果てに死を選んだわけではない。口端に
浮べた微笑が、それを暗に物語っている。
 男に覆い被さるようにして息絶えた女の手に
は、黒く光るベレッタが握られていた。ブロン
ドの髪はすっかり色褪せ、囁くように男の耳元
に寄せた輪郭の薄い唇は、干からびてひび割れ
てしまっている。空色のワンピースは、右肩の
部分が引き千切られており、全体的にひどく汚
れていた。下になった男は、更にひどい具合で、
ラクーンポリスの制服、青色のワイシャツと紺
の長ズボンの至るところに、誰のものとも知れ
ぬ血と、この地域特有の赤い土がこびりついて
いる。右襟の部分から胸にかけて丸く染み込ん
だ血は、彼のものだろう。その証拠に、首元の
肉が拳一つ分無くなっており、その周りにくっ
きりと青黒くへこんだ歯型が刻まれている。
 リック・バイアーにシンディ・ミラー。君達
は、本当にそれで幸せだったのか? 君達の取
った選択は、とても賢明で、人間味があって、
賛同すべきものである反面、深い哀しみに満ち
たものだった。その選択を迫られたのは、決し
て君達の業によるものではない。君達は、運悪
くその場所に居合わせて、人間であるが故に有
罪の烙印を押された、無実の罪人に過ぎなかっ
たのだ。ならば、何か他に方法は無かったのだ
ろうか? 君達が、本当の意味で笑い合えるよ
うな、もっと安穏としてありふれた、それでい
て多幸な生涯に至る選択肢を増やす事は、不可
能だったのだろうか?
 空しい問いかけは、突如、シティの西側を襲
った大爆発によって遮られた。ポリスの屋上ま
で震えるほどの、強烈な振動が地を走った。西
の空が赤に染まる。時計塔の方角だ。また、あ
の食欲旺盛な生ける屍どもが、犬にも劣る知能
を発揮して、可燃性の物体にでもかじりついた
ところに、火気が寄ったのだろう。天を焦がす
炎の勢いから察するに、時計塔に至る道のりは
火の海になっているに違いない。もっとも、私
は飛んで行けばいいわけなのだから、全く何の
障害にもならないのだが。
 私は改めて、リックとシンディを見返した。
先ほどの振動で、リックのズボンのポケットか
ら、茶色の小箱が顔を見せている。私は、細長
い嘴を器用に使い、それを引きずり出した。箱
が落ちて、乾いた音を立てる。反動で蓋が開い
た。
 中から溢れたのは、彼らの悲愴な運命とはか
け離れた、ありふれた甘いメロディだった。そ
の音色が、私の胸をつねった。追慕の念が肺腑
に達する。それを、湿った吐息とともに、吐き
出した。
 そのありふれたメロディは、彼らがまだあり
ふれた日常に生きていた頃、そして、私が初め
てリック・バイアーに出会った頃を思い起こさ
せるものだった。
 そう、今となっては、遠いあの頃を。






 1章 クロウ

 白い太陽の照りつける下、私は仰天した。そ
れこそ、本当に心臓が口からはみ出してしまい
かねないほどに、びっくり仰天したのである。
なぜなら、唐突に、私が私であったからだ。
 何を間抜けな――、などと言ってはいけない。
本当に、私は今の今まで、私という存在を知ら
なかったのだ。まるで空白の中から取り出され
たかの如く、私は突然、私になってしまったの
だ。しかも、この臭い! 口の中に残っている
この臭いは何だろう。胸がむかつく臭いだった。
 なぜ私は、私なのか。なぜ、私はこんなとこ
ろにいるのか。なぜ、私は飛んでいるのか。
 ――飛んでいる?
 そう、私は蒼空の高みで、漆黒の両翼を大き
く広げて、背後から吹き抜けていく風の流れに
身を委ねていたのだ。
 そのことに疑問を持った瞬間、風はいとも容
易く私を見放した。私は溺れるように、これま
た墨のように真っ黒な嘴を空に突き出したまま、
羽をばたつかせて落下していった。操縦不能と
なった飛行機の操縦桿を操るように、私は滅茶
苦茶に体を動かした。左右に生えていた黒い翼
を必死に上下させると、少し体が浮かんだ。だ
が、それも一瞬である。高度はどんどん落ちて
いく。いくら私が、今私になったばかりでも、
この高度から落ちて助かるかどうかの区別くら
いはつく。このまま地に叩きつけられたならば、
私の体など細かな肉片となってしまうに違いな
い。
 何か策はないものかと、Yの字を描いたよう
な姿勢のまま、首を少し傾けて、下方を見やっ
た。予想以上に厳しい現実がそこにある。眼下
には木々のクッションどころか、よりにもよっ
て、固いコンクリートで覆われたビル群が密集
していたのだ。私が飛んでいた場所は、とある
街の上空だったのである。
 私は失望で、体の力が抜けるのを感じた。す
ると、出来の悪い彫刻のように、嘴を上向きに
して固まっていた体が、引力の法則のなすがま
まに嘴を下に向けて、翼を広げ、滑空するよう
な姿勢になった。薄情な風が私の背を押す。下
から吹いていた風が、顔を切るようになった。
だが、依然、高度は下り続けている。
 私は忙しなく辺りを見渡して、手頃な着陸場
所を探した。一見すると、ビルだらけだが、よ
く見れば、公園など、自然が残されている場所
も多い。私は左右の翼をうまく上下させて、飛
距離を調整した。元々、体がその動きを憶えて
いたのであろう。私は追い風にうまく身を任せ
ることができた。後は、微かな疑心も抱いては
ならない。これが自然、至って普通なのだと自
分自身に思い込ませて、感覚に全てを委ね、巨
大な時計塔の近くの、大きな公園を目指した。
噴水がある広間を囲んだ、巨木の枝葉の群が落
下希望地点である。
 私は木のクッションに接触する寸前、一度大
きく両翼を羽ばたかせた。少しだけ体が浮く。
だが、滑空の傾斜がきつすぎて、重力を殺しき
れなかった。両脚を突き出して、クッションの
中に沈む。視界に襲い来る木々の枝が、私の体
を舐めるように擦って痛めつける。手頃な枝を
次々に叩き折り、密集した緑の屋根を突き抜け
て、弧を描くようにして、青草の生える茂みに
滑り降りた。いわゆる、胴体着陸というやつだ。
そして、そのまま巨木の下で抱き合っていたカ
ップルの間にスライディングしたのである。
 カップルが驚いたのは、無理もない。
「な、何! 何なの?」
 女の方が、豊かなブロンドの髪を振り乱しな
がら飛び上がった。
「び、びっくりした。大丈夫、シンディ。クロ
ウだ」
「クロウ?」
 男に招かれて、女が顎を突き出すように、恐
る恐る私を見下ろした。私はなおもスライディ
ングの姿勢から動かなかった。芝生の絨毯が気
持ち良かったわけではない。目が回ってしまっ
て、動けなかったのである。
 黒い短髪の男は、細い顔立ちで、青い瞳をし
た青年だった。だぶだぶの黒いTシャツにジー
ンズのズボンをはいている。対するブロンドの

女性は、これもまた青く透き通る瞳を持ってお
り、空色のワンピースを着ていた。男とはうっ
てかわって肉付きが良い。それでも決して太り
すぎているわけではなく、女性らしい丸みを帯
びた体つきであった。
「クロウって、こんな風に着地するものなの?」
「まさか」
 青年が私の前にしゃがんで、両掌で優しく私
の体を挟みこんだ。
「こいつ、怪我している」
「本当。体中擦り傷だらけね。あら、この傷は
何かしら?」
 女が細いひとさし指で、私の左こめかみを示
した。
「何だろう? ひどいな、少し肉がえぐれてい
る。周りが焦げているし……、まさか、銃創?」
「ねえ、もう行きましょうよ」
 女はいかにも気持ち悪そうに顔をしかめたが、
男の方はむしろ前のめりになって、私の足下に
指を入れる。私は軽々と持ち上げられてしまっ
た。
「ちょっと、リック。どうするつもりなの?」
「手当てをしてやりたいんだ。うちに連れて帰
るさ」
「冗談でしょう? 嫌だ、こっちに持ってこな
いでよ」
「大丈夫。別に噛みつきはしないさ」
「突っつかれるのもごめんよ」
 青年は気にする様子も無い。結局、彼女は先
に帰ってしまった。
 私が青年に連れられて行った先は、小さなガ
ンショップだった。青年はショーウインドウの
外から様子をうかがって、店内に誰もいないの
を確認してから、私を持ち込んだ。店内の壁に
は、実用の物から飾り物まで、様々な銃が飾ら
れている。ライフル、弾、リロードツール、そ
の他の備品も充実していた。
 青年は、音を立てないように、カウンター越
しに身を屈めて歩く。私を片手に持ち替えて、
開閉式のカウンターの下をくぐり抜けると、奥
に通じるドアを開いて首を入れた。用心深く左
右を確認している。ドアのわずかな隙間から体
を滑り込ませて裏路地に出ると、すぐ側にある、
ひどく錆びた鉄製の階段を忍び足で上った。
 階段の途中まで上ったところで、下から野太
い呼び声がした。青年の体がぴくりと上下に揺
れる。青年が、私を隠すように、背を向けたま
ま首だけを伸ばして、階下に顔を見せる。
「ただいま、父さん」
「なんでえ、もう帰ってたのか」
「ああ、ちょうど今、帰ったよ」
「デートじゃなかったのかぁ? 暇なら店を手
伝え」
「判った。後で行くよ」
 青年は愛想笑いを浮べると、階段を上りきっ
て、横手にある木のドアを開けた。そこから、
板張りの通路が真っ直ぐに通じていて、正面突
き当りの壁には、陽を取り込む小さな窓がつい
ている。右はコンクリートの壁で、左にはドア
が二つ。青年は奥のドアの前に立つと、鍵を開
けて中へ入った。一息つく。
 そこはベッドと机、それに本棚が一つあるだ
けでもう一杯になってしまうほどの小さな部屋
だった。ベッドにも床にも本が散乱して、御世
辞にも綺麗とは言えなかった。天窓から部屋の
中に薄光が射し込んでいるせいか、天井から黒
いコードで垂れ下がった裸電球をつけなくとも
部屋は明るかった。
 青年は机の上で塔を造っている本を払いのけ
ると、ベッドからシーツを引き剥がして、机に
敷き、その上に私を置いた。
「よーし。頼むから鳴かないでくれよ。父さん
に見つかったら、撃ち殺されてしまうぞ」
 そう言いつけて、青年は部屋から出て行き、
救急箱を片手にすぐ戻ってきた。それから、慣
れない手つきで、私の体の手当てをしてくれた。
「これでよし。しばらく大人しくしていれば、
すぐに飛べるようになるさ」
 私は可動範囲ぎりぎりまで首を捻って、怪我
の具合を確かめた。白い包帯に滲んだ黄色の液
体がきつい匂いを発している。人間の消毒液で
あろう。……待てよ、人間?
 私は人間なのか? そうだ。すっかり忘れて
いたが、私はなぜ、あの大空で、唐突に私であ

ると気がついたのだ。そもそも、私とは何なの
だ? 私は背後で私の動きに合わせて蠢く黒い
物体に気がついた。それは、壁に立てかけられ
た、小さな長方形の鏡の中にいる。真っ黒い瞳
をした何かが私を見つめた。私が首を伸ばすと、
鏡の中の生物も、細長い首をにゅっと伸ばして、
顔を近づけて来る。まさか……。
 青年が、落ちつかない私の頭に人差し指をの
せて、撫でた。
「どうしたんだ? クロウ?」
 そう、私は、クロウ(カラス)だったのだ。
 全身を黒々とした羽毛で覆った、何とも薄気
味の悪いそのカラス、すなわち私は、呆然と、
鏡に映る己を見つめていた。全身を包帯で巻か
れていて、左こめかみの部分をテープで留めら
れた白い大きなガーゼで覆っているが、紛れも
なく、私はカラスだった。空を飛んでいたわけ
だ。だって、私はカラスだったのだから。
 でも、私がカラスであるとするならば、なぜ
私はこうも人間の言葉を理解し、こうも世界を
知っているのだ? 私は、私のことを見下ろし
ている青年の言葉を聞き取り、理解する事がで
きる。そればかりではない。私は彼らが人間で
あるという事も、彼らが何を着て、何を食べて、
どのような生活を送っているのかまでも知って
いる。それだけならば、過去の記憶で済まされ
るだろうが、この特異なカラスは、彼らの文化
までも熟知しているのだ。そう、シェークスピ
アがリア王を書いた事も、アダム・スミスが神
の見えざる手を発見した事も、エジソンが発明
の父である事も、ゴシップ誌における大統領の
セクハラ・スキャンダルさえも、私は知ってい
るのだ。
 そもそも、私がカラスであるのならば、なぜ、
カラスであった頃の記憶が無いのだ? カラス
はいきなり無から取り出される黒い塊ではない。
卵から孵って、幼鳥期を通りすぎねば、鏡に映
っているような大柄なカラスはできあがらない。
「ああ、いけない」
 青年が思い出したように言った。
「店の手伝いをしなければいけないんだ。声を
出さないでくれよ? 大丈夫、怪我が治ったら、
すぐに放してあげるさ」
 青年が出て行くと、部屋の空気が急に沈んで
しまった。すでに部屋の中は薄暗くなっており、
天窓からはオレンジ色の西日が射し込んでいる。
 温かい陽光のせいか、それともリックと名乗
る青年の雰囲気のせいであろうか、私はすっか
り落ちついて眠くなってしまった。思考力が薄
れて、考える事さえ鬱陶しい。もういいや、面
倒くさい。確かなのは、私はカラスであり、今
現在、恐らくは安全な場所にいるという事だっ
た。今は、それだけで十分だ。
 私は翼の中に頭を隠すようにして目を閉じた。
安らぎが、全身を包み込んだ。今は、これで良
い。何にせよ、私は外見だけでも、私を手に入
れたのだから。
 私はクロウ。かつての自分を失い、人間の家
に居候している、特異なカラスである。


 2章 ラクーンシティの人々

 夜になると、シティの容貌は、色とりどりの
ネオンや照明に浮び上がる。近代的なビルが建
ち並ぶ一方で、薄暗い路地や古風な建物を残し
ているその街は、もう遠い時代のアメリカの姿
を回顧させるものがあった。
 街の西側では、時計塔が一際高くそそり立ち、
その白くライトアップされた大時計の盤面が、
暗空を照らしている。私はその盤面に小さな影
を落として、時計塔の前をよぎった。水平に分
かれた時針と分針に、横並びに止まって羽を休
めていたコウモリらが、黄色い瞳で私の姿を追
っている。私は両翼を広げて涼を運ぶ夜風にの
り、シティの東に向って飛んでいた。
 私がこの街、ラクーンシティに来てから早一
週間、体はもうすっかり回復していた。それは
肉体的な事に留まらない。精神的な意味でも、
自分という存在の整理ができた。かつて私が私
で無かった時にしていたであろう、食べる、眠
る、歩く、飛ぶなど、本能に根ざした行動を、
改めて私のものにする事ができたのである。全
ては、安心できる棲家を手に入れたお陰だった。

 宿主である青年、リックは、私の怪我が癒え
ると、いつでも部屋の天窓を開けておいてくれ
た。朝になると、私はそこからシティに向って
飛び出し、夜になると戻る。リックの職業は警
察官で、朝晩ともに不規則な生活を送っていた
ため、顔を合わせることは稀だった。
 たまに彼と居合わせたとしても、特に何をす
るわけでもない。彼は実に勤勉で、いつも本ば
かり読んでいたからだ。それは乱読と呼ぶのに
相応しく、ありとあらゆるジャンルの本を読ん
でいた。小説はもちろんのこと、哲学(カント
を読んでいる!)、数学、詩、科学などをひど
く好んでいるようだった。
 不思議な事に、私は彼の読んでいる本の半分
以上の題名と内容を知っていた。また、私は、
リックの勤勉のお陰で、自分自身の知識に片寄
りがあることを発見できたのである。数学、科
学などは何でも知っていたが、哲学は有名どこ
ろを除いて、ほぼ無知であった。化学に関して
は、まるで高等な教育でも受けたかの如く、学
者並の知識を有しているようだ。
 ――私は人間だったのではないか。
 最近、そんなことを考えるようになった。そ
う、きっとマッド・サイエンティストで、物質
の転移装置でも作っていて、たまたま何かのア
クシデントでカラスの中に自分の意識を転移し
てしまったのだ、多分。
 そんな下らない事を考えながら、私はリック
の職場である、警察署の上空に差しかかった。
警察署の正門に寄りかかって、酒瓶を傾けてい
る老人がいる。もみあげで繋がった白髪と白い
顎鬚が特徴的な、ベッガーのスミスだ。いつも
はラクーン自然公園のベンチで横たわっている
のだが、今日はどこから取り出したのやら、酒
瓶で一杯やって、機嫌がいいらしい。警察署の
前で堂々と鼻歌などを歌っている。門番は、相
手にしていないようだった。
 思えば、このベッガーのスミスといい、宿主
のリックといい、私はたった一週間の内に、様
様な人間と出会う機会に恵まれた。私の姿を見
ると必ず石を投げてくるネイサンという悪ガキ
や、いつも公園で妄想に浸っている売れないプ
ライズライターのミック、リックと仲の良い、
バーの店員ウィルソン。皆、ラクーンシティの
住人である。
 私はアーケードを越えて、街の東に位置する
レストランの裏口へと降り立った。レストラン
といっても、それほど豪華なものではなくて、
いわゆる大衆食堂のようなものである。
 私はそこで、間の抜けた、語尾の長い、カラ
ス特有の鳴き声で一鳴きした。少しあって、裏
口のドアがわずかに開く。私と同じように黒い
容貌をした、大柄な人物が顔を出す。ドアの隙
間から漏れた、黄色い光に照らされた私を見下
ろして、白い歯をニッと突き出して微笑んだ。
「やあ、フレンド。よく来たね」
 彼はそう言うと、ドアの隙間から固くなった
パンや、食べ残しなどを投げてくれた。
 彼の名はマーチン。レストランの下働きにし
て、この街で唯一、私の事をフレンドと呼んで
くれる男である。私が彼に出会ったのは三日ほ
ど前、今と同じように、おいしそうな匂いにつ
られて来た時の事だ。汚い物を見るような視線
に慣れていた私は、彼がリックと同じように、
私を正当に扱ってくれる存在である事を一目で
見抜いた。なぜなら、私を見る彼の瞳は、とて
も優しいものだったからだ。
「なあ、フレンド。おれは、いつか必ず一人前
のコックになってやるぜ」
 私が残飯を突っついていると、彼は必ずそう
言った。
「おれは、まだ半人前だがよ。それでも、夢は
あるんだぜ? いつか絶対、みんなに、おれの
作った料理を食わしてやるんだ。なあ、フレン
ド。お前はカラスだけど、おれにとっちゃあ初
めての客だ。お前は、おれの出す食い物目当て
に来てくれる、大切な客なんだぜ?」
 そう言って、嬉しそうに私の頭を撫でるのだ
った。
 そんな調子で、私はこの街にうまく溶け込ん
でいった。だが、もちろん、この街にいる連中
は人間だけではない。犬が縄張りを持つように、
我々鳥類はもちろんの事、様々な生物が、巣と
いうものを持っている。彼らと同類である以上、

私は彼らのルールを遵守しなければならないの
だ。最初にその事を知ったのは、私が自由自在
に空を飛べるようになった頃だった。病院の近
くを飛んでいた時、二匹のカラスが猛烈な勢い
で攻撃をしかけてきたのだ。私は彼らの巣に近
づきすぎたのだった。幸い、その時は羽を毟ら
れる程度で済んだのだが、私はこの一件で、人
間と交わる一方で、この街の生物とも仲良くす
る必要性を感じたのである。といっても、最初
の内はどうしていいのか判らなかった。近づけ
ば攻撃の的になるし、これはお笑いにもならな
いのだが、私はカラスの言葉を知らなかったの
だ。
 いい加減カラスである事を諦めかけていた、
数日後の午後。
 私が公園のベンチの上で、ベッガーのスミス
の愚痴を聞いていると、メスのカラスがすぐ隣
の、ベンチの背もたれの部分に降り立って、私
に何か語りかけてきた。いつものように、縄張
りを荒らした私に対する苦情を言っているのだ
ろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
彼女は小首を傾げて興味深そうに、私を見てい
る。
 私は二、三度跳ねて、彼女の乗るベンチの足
下に立ち、伏し目がちに彼女を見上げた。彼女
に警戒心を抱かせないために、距離をおいたつ
もりだったのだが、意外にも、彼女の方から私
に近づいてきた。彼女はベンチから飛び降りて、
私の前まで来ると、不意に嘴を突き出してきた。
私の嘴の先に軽く触れる。それから、顔を引っ
込めて、首を傾げる。私が嘴を突き出すと、そ
の先端から逃れて、背後に飛び下がった。そし
て、また近づいて来る。
 そんなことを続けていると、なんとなく、彼
女のしたい事が判ってきた。いわゆるこれが、
求愛行動というやつなのだ。どういうわけか、
彼女は私をいたく気に入ったらしい。私がベン
チの上に飛び乗ると、すぐに私の横に並ぶ。私
が飛び立つと、後についてくる。野生の獣らし
く、決して警戒を怠らず、それでいて、最大限
の好意を表わしているのだ。
 数時間後、私と彼女は暮れ残る空の下、最初
に出会ったベンチの背もたれの上に止まり、身
を寄せ合って、西の空を見つめていた。夕日の
余光が色を失って行くにつれて、公園の街灯が
順々に点灯していく。公園に人の姿はなく、噴
水から噴き出され、流されて行く水だけが音を
なしていた。
 やがて日は沈み、月光がくまなく公園に照り
渡った。羽毛を通して、彼女の温かみが感じら
れる。いつしか、私は自分が何者であったのか
という事を考えなくなっていた。公園のその辺
りは、彼女の縄張りであったらしく、私は分不
相応にも別荘を持つ身となったのである。
 そうこうしている内に、八月も下旬になった。
ラクーンシティの夏は威衰える事を知らない。
寝苦しい日々が続く最中、公園の噴水で遊ぶ子
供らの声で、私は目を覚ました。隣で、黒い塊
がもっそりと動く。彼女は一度翼を広げると、
折り畳んで、また首を垂れた。私がその首元を
嘴で軽く突つくと、彼女はお返しとばかりに私
の体に体当りしてきた。そして、また仲良く身
を寄せ合って、目を閉じる。こんな風に彼女と
暮らし始めて、もう二週間にもなるのだ。近頃
の私の日課といえば、リックの元に顔を出す事、
マーチンのレストランに残飯を貰いに行く事、
あるいは、彼女とこうやって、公園の中で一際
高い大木の枝に止まって、日中のうだるような
暑さから身を隠す事ぐらいのものだった。
 正直、私は少々退屈していた。人の心を持つ
私にとって、食事と繁殖を主とする動物の生活
はあまりにも単調だったからだ。
 それは、八月の最終日の事である。私が目を
覚ますと、もう昼過ぎだった。彼女は遠くまで
餌を探しに行っているようで、なかなか帰って
こない。暇を持て余した私は、特に当てもなく
リックの部屋に向った。
 もう初秋であるというのに、残暑はことのほ
か厳しかった。高空を飛ぶ私達鳥類にしてみれ
ば、照りつける太陽ほど癪に障るものは無い。
木陰の隙間を縫うように低空飛行して、なんと
かリックの家まで辿り着くと、部屋から漏れて
いる透き通るような音色を聞いた。それは高く
跳ねて柔らかく崩れる、独特な音の重なりであ

った。天窓の縁に止まってその正体を探ると、
稚拙な響きを残す音色は、机の上に乗った小さ
な四角い箱から発せられている事が判明した。
箱の蓋は開かれており、その内より例の音色が
聞こえてくる。確か、オルゴールといったっけ。
リックは、その箱を見下ろすようにして、椅子
に座っていた。
 リックは私が机の上に乗るまで、私の存在に
気がつかなかった。そして、私の姿を見るや否
や、飛び上がって驚いた。
「な、何だ。クロウか、よく来たね」
 リックはぎこちなく笑いながら、箱の蓋を閉
じて音を封じると、それを大切そうにズボンの
右ポケットにしまいこんだ。
「今日は夜勤なんだ。それにしても、最近、暑
いね」
 まるで言い訳をしているかのように、リック
は体裁を取り繕っている。しばらく押し黙って
から、彼はふと呟いた。
「なあ、クロウ。幸せって何だろうな」
 リックは、しまい込んだオルゴールを再び取
り出して、机の上に置いた。箱を開いて、横か
らはみ出している螺子を巻くと、メロディが溢
れ出す。
「このオルゴールは、僕の母さんの物さ。僕の
母さんは幸せだった。早くに死んでしまったけ
れど、それでも父さんは母さんを大切にしてい
た。僕は……、彼女を幸せにできるのだろう
か?」
 リックはそれから長々と、ある女性への想い
を語り始めた。
 その人の名前は、シンディ・ミラー、リック
の家から少し離れた裏路地で、ブティックを経
営している女主人の一人娘らしい。
「彼女は、とても素晴らしい人なんだ。それは
もう、この世のものとは思えないほどに」
 リックは、この男らしい清純な想いを、目を
輝かせながら止めどもなく語っている。内容は、
少し夢見がちなところもあったけれど、それは
それで、この男らしい恋愛だと思った。彼は、
シェークスピアのソネットまでも引用して、彼
女の絶対的な美を称えている。彼の言う人物が
この世に存在したならば、モナリザも裸足で逃
げてしまうだろう。
「でも、クロウ」
 リックは、急に声を落した。
「僕は彼女に相応しい男だとは思わないんだ。
彼女に好かれるために、少しでも真っ当な仕事
につこうとして警察官になったんだけれど、ヘ
まばかりしている」
 私は無意識の内に頷いていた。そうだろうな。
彼の仕事ぶりを見た事はないが、判る気がする。
この男に、悪人を捕まえる事などできるわけが
ない。
 自分の不甲斐無さをなじって、散々に落胆し
た後、彼は机の上に突っ伏して眠ってしまった。
私としては恩人の力になりたいのだが、どうし
ようもない。もしも、この街のどこかにハッピ
ープリンスの像が立っていて、私がそこで雨宿
りをするリトルスワローならば、宝石の一つで
もプレゼントしてやれるんだけれど。
 私は音を立てないように飛び上がり、天窓を
通って部屋から出た。辺りはもう薄暗くなって
いる。公園に彼女が戻ってきているかも知れな
い。リックには悪いが、聖母マリアもびっくり
の黒い天使が私を待っているのだ。


 3章 前兆

 公園に戻ると、すっかり辺りは暗くなってい
た。不規則に点滅する街灯の周りに集まった蛾
の群れを蹴散らして、棲家に戻ると、すでに彼
女は帰ってきていた。いつもと同じように、少
しうつむき加減で、枝に止まっている。私もい
つものように、体を寄せた。あの温かみを期待
していたのだが、意外にも彼女の体は、氷のよ
うに冷たかった。具合でも悪いのだろうか。私
が心配して鳴くと、彼女は力なく応えを返す。
その体が小刻みに震えていた。風邪でもひいた
のだろうか。点滅を繰り返していた街灯が、不
意に消えた。こういう時、鳥は困るのだ。私は
瞬きを繰り返す。彼女の方角をうかがった時、
嘴の先に、水のようなものが触れた。何だ?

これは。
 目が慣れてくると、私は嘴の先についている
のが、彼女の涎である事に気がついた。庭は彼
女の嘴から、白い糸を引いて滴り落ちている。
それだけではない。彼女の目からも、同じよう
な液体が溢れている。涙にしては、妙に粘り気
があった。それにしても、この臭いは何事か。
私は鼻が利かなくなってしまうような、腐敗臭
にも似たその臭いが、私の嘴の先についた、彼
女の誕から発せられているのに気がついた。ど
こかで嗅いだ事のある臭いだった。何にしても、
彼女は病気に違いない。私は彼女の体を温めな
がら、一晩を過ごした。翌日になれば、きっと
彼女は回復すると信じていた。少なくとも、命
の心配まではする必要がないと思っていた。
 ところが、そんな思いとは裏腹に、翌日にな
ると彼女の体調はますます悪くなった。だらし
なく垂れ下がった白い汁は穴という穴から止め
どもなく溢れだし、例の臭いは彼女の全身から
発せられるようになった。彼女は時折、力なく
枝から飛び降りると、すぐ側で勢い良く水を噴
き出している噴水の水が溜まった泉まで、自力
で飛んでいった。そして、夢中になってその水
を飲むのだった。
 夕方になると、彼女の状態はいよいよ切羽詰
ったものになった。彼女は絶えず荒い息を吐い
て、落ちつきなく左右に体を揺り動かしている。
心配して身を寄せると、プリキの人形のように、
彼女の首が、ゆっくりと私の方角に向けられた。
その瞳の奥に赤い斑点のようなものが見えた瞬
間、彼女は細く鋭い嘴を、私の顔目掛けて突き
出してきた。私は反射的に、背後に飛び退いて
それをかわした。何が起こったのか、まるで理
解できなかった。その一撃は、いつもやってい
るような冗談めいたものではない。明らかに、
私を傷つけようとして放ったものだった。
 彼女は突如として、気が違ったかの如く叫ん
だ。そして、がむしゃらに襲いかかってきた。
 私は彼女の体当りを食らって、地面に落下し
た。尻餅をついたような姿勢のまま見上げると、

粘着性のある汁を目や口から垂れ流して飛ぶ、
彼女の姿があった。彼女は、それから三度、怒
声を浴びせてから、陽の沈みゆく西の空へと飛
び去って行った。
 後に残された私は、ただ呆然とするばかりだ
った。あれは彼女ではなく、別なカラスなのだ
と思いたかった。暑さに我を失ったカラスが、
私と彼女の巣に入り込んできたのだと信じたか
った。しかし、間違いなく、あれは彼女だ。我
我の種を感知する勘のようなものは、人間の想
像を遥かに越えたところにある。でも、なぜ?
私が何をしたというのだ?
 それにしても、彼女のあの症状。私は、それ
をどこかで見た事があるような気がした。一体、
どこで? 頭の中で、幾十という思考が火花を
飛ばしてぶつかり合う。啓示をあやかるには、
まだ何か足りないような気がする。頭がひどく
痛い。吐き気がする。原因は、この臭いだ。意
識してみると、この臭気が公園の敷地内全てを
覆っている事に気がついた。この公園には、何
か有害なものでもあるのだろうか。上空に舞い
上がって公園を見下ろしても、特に変ったとこ
ろは見当たらない。代わりに、ベンチの上で横
になっているスミスの姿を見つけた。いつもな
らば、酒でもひっかけて陽気な鼻歌混じり、と
いった彼が、死体のように丸まって横たわって
いる。両手で全身の至るところを掻き毟りなが
ら、震えているようだった。
 私は、これ以上公園にいたくなかったので、
リックの部屋に帰る事にした。彼の部屋まで辿
り着くと、電気が消えていて、彼の姿は無かっ
た。昨日に続いて、今日も夜勤なのだろうか。
いつも通り、遠慮する事無く、彼のベッドの上
に乗って目を閉じた。そうしていると、公園で
の出来事が、まるで夢のように感じる。私は、
自分の体から例の臭いがしていないか確かめた。
良い匂いとまではいかないが、少なくとも、吐
き気を催すような例の臭いはしていない。
 私は公園での出来事を、落ちついて、順序立
てて考えてみることにした。彼女に変わったと
ころは無かったか、公園自体に異変は無かった
か、一つ一つの事例を整理していくと、やはり、
例の臭いに突き当たる。例の臭いとは何か。な
ぜ、同じような生活をしていて、彼女にだけ、
例の臭いがついたのか。
 私があれやこれやと思い起こしていると、廊
下で足音がした。それは大きくなっていき、部
屋の前で止まった。大きな溜息が一つ。そして、
ドアが開いた。入ってきたのは、生彩を欠いた
表情のリックだった。普段着ではなく、制服の
ままである。彼は部屋の電気をつけると、ベッ
ドの上にいる私を見て微笑んだ。その目の下に
は、わずかにくまができている。
「来ていたのかい? 悪いけれど、横にならせ
てもらっていいかな?」
 もちろん、私はすぐさまベッドの端に寄った。
リックがうつ伏せに倒れ込む。顔をのぞきこむ
と、彼は薄らと瞼を開いた。
「まいったよ。昨日から、ほとんど寝てないん
だ。夜勤を終えた後、ちょっとした事件が起こ
ってね。集団食中毒ってやつさ。今日一日中、
病院に駆けつけた患者の誘導をしていたんだ。
少し休んだら戻らなきゃいけない。警察と医療
機関は結束して、事態の原因解明に奔走してい
るよ」
 リックは、間に溜息を挟んで続ける。
「患者の症状は軽いんだ。全身の腫れ、痒み、
腹痛、嘔吐。だけど、何が原因だか判らないか
ら、医者も手の施しようがないらしい。それに、
今回の食中毒は人間だけじゃない。なんでも、
犬や猫も同じような症状を見せているらしい。
クロウ、君は大丈夫かい? しばらくはこの部
屋から出ないほうがいい。ああ、シンディにも、
気をつけるように言っておかなきゃ」
 私は話の後半を、ほとんど聞いていなかった。
やはり、彼女は病気だったのだ。
 私は隣で安らかな寝息を立てているリックを
残して、部屋から飛び出した。彼女が公園に戻
ってきているかもしれない。彼女を見つけ出し
て、強引にリックのもとに連れて来ようと思っ
た。人間の医者に診てもらえば、彼女は助かる
かもしれない。そうすれば、また一緒に身を寄
せ合い、温かみを感じる事ができる。
 夜も遅いせいか、上空から見るラクーンシテ

ィに人の姿は無かった。風に乗って流れてくる
のは、パトカーと救急車のサイレンの音ぐらい
で、それに犬の遠吠えが混じる事もある。
 公園上空に差しかかった時、私は思わず顔を
逸らした。甘い腐敗臭が、空の高みにまで上っ
てきたのである。街の至るところで感じる事が
できるこの臭いも、ここだけは別格の強烈さだ
った。なるべく鼻に意識を集中しないように気
を逸らしながら、高度を落として行く。スミス
の横たわっているペンチの、すぐ側に降り立っ
た。目が回るほどの異臭が、全身を包み込む。
 寝転がっているスミスに構わずに、私は棲家
であった大木の下まで進んだ。見上げても、彼
女の姿は無い。他の場所を探そうと向き直ると、
今までベンチで横になっていたスミスがだるそ
うに動き始めた。ベンチから転がり落ちると、
地を這って、噴水の方角へと進んで行く。顔を
水につけて、とりつかれたように泉の水をすす
り始めた。その様子は、まるであの時の彼女の
ようであった。
 私は特に何の意図もなく、スミスの背に近づ
いた。泉を囲む、石造りの縁の部分に立って、
強烈な目眩を感じた。噴き出されている液体は、
水ではなかった。水を装う透き通る液体は、例
の臭いの塊だったのだ。スミスには、この臭い
が判らないのだろうか。私は、こうやって池の
すぐ側に立っている事でさえ精一杯だというの
に。
 ここにいてはいけない。そう思い、私がその
場を離れようとした瞬間、スミスが顔を上げた。
顎鬚から、水滴が滴り落ちる。掻き傷だらけの
顔の中心、虚ろな双眸の奥に、赤い光を見た。
彼は無造作に手を伸ばして、私の左翼を掴んだ。
私は凄まじい力で引っ張られる。彼が大きく口
を開けた。
 私は無我夢中でその手を突ついた。縁を蹴っ
て飛び上がる。緩い感触が左の翼を滑り、私は
スミスの手から逃れた。そう、異常なほど簡単
に引き千切れてしまった、彼の掌の皮を左翼に
乗せたまま。
 それでも、スミスはまるで痛みを感じていな
いようだった。血と滲出液に濡れた掌を見て、
臭いを嗅ぎ、紫色に変色した舌でそれを舐めた。
 私は左翼に乗った皮を振り落とすと、空に逃
げた。わき目も振らずに、リックの部屋に逃げ
帰った。部屋は真っ暗で、リックの姿は無かっ
た。机の下に潜り込むと、何も考えないように
努めた。何かを考えたら、私はきっとおかしく
なってしまう。いや、もうおかしくなっている
のかもしれない。ああ、思い出した。あの臭い
は、私が私であると自覚した瞬間に口の中に感
じたものだ。それでは、私も、スミスや彼女の
ようになってしまうのだろうか。私は両翼の間
に頭を隠すと、震えながら夜明けを待った。


 4章 女

 私は突如として、完全に覚醒した。眠りの余
韻は、瞬時に断ち切られ、心臓が早鐘を打つ。
 はっきりと思い出せないが、悪い夢を見た。
少なくとも、全身の毛が逆立ってしまうほどの
悪夢を見た。大丈夫、ここはリックの部屋だ。
あそこ、じゃあない。
 ――あそこ?
 そう、私の脳裏にこびりついている夢の断面、
あそこの光景。注射器、手術台、白衣を着た男
達、眩いライトの光、光、光……。
 部屋は相変わらず真っ暗だった。まさか、ま
る一日も意識不明になっていたのだろうか。そ
れとも、まだあの夜が続いているのだろうか。
突風が開け放たれた天窓を揺さぶり、激しく部
屋の壁に叩きつけている。甘い臭気はもう当然
の如くそこにあった。
 目を覚ましたものの、外の様子をうかがう気
にはなれなかった。今、街のあらゆる場所で起
こっているであろう事態を考えただけでも寒気
がする。眠りの底で微かに感じていた、ひっき
りなしに鳴っていたパトカーのサイレンも、今
では全く聞こえてこない。ここは、まだ平穏だ
った。部屋に残っているリックの匂いが、私を
落ちつかせてくれる。
 天窓が、また大きく音を立てた。風は思いの

外に強いようだった。廊下で足音が聞こえたの
は、その時である。乱暴な足音が物凄い勢いで
近づいてくる。私は身動きせずに、息を潜めた。
次の瞬間、ドアが勢い良く開け放たれた。
「ちっ、リックの野郎め、窓を開けっぱなしに
して行きやがった」
 部屋に入ってきたのは、リックの父親だった。
部屋の電気をつける。狭い部屋である。机の下
といっても、細い脚が四つあるだけで、私の姿
は光の下にさらされてしまった。リックの父親
の眉がつり上がった。
「なんだ? どこから入り込みやがった」
 リックの父親はベッドの上に乗っていた分厚
い本を取り、机の下にしゃがみ込んで、私をは
たいた。私は机の下から転げ出ると、天窓を通
って外へ飛び出した。背後で天窓が閉じられる
音がした。
 私は当てもなく、ストリートの上空をさ迷う
ことになった。あまりの臭気のひどさに、私の
鼻はすっかり麻痺してしまっている。街は不気
味なほどに静かだった。まるで、何事も無かっ
たかのようである。私は、少しだけ安心した。
思ったよりも、街は平穏を残しているように見
える。そんな時、遥か下方で、銃声が起こった。
 銃声は一度ではない。二度、三度と立て続け
に鳴り響いた。仰天したせいか、私は大きくバ
ランスを崩した。地上に犇くビル群と接触する
寸前、何とか体勢を立て直すと、食品店の屋根
に不時着した。先の銃声は何だったのだろう。
首を伸ばして、恐る恐るストリートの様子をう
かがう。
 ストリートの真中に、一人の男が立っていた。
彼が手にしているのは安物のベレッタである。
ベレッタから立ち上った硝煙が、闇夜に吸い込
まれていく。彼は再び、前方へと構えた。粘着
性のある足音が、前方の暗がりより聞こえてく
る。やがて、街灯の下に、その姿が露になった。
 それは、何と醜い生物なのだろうか。形は人
間なのだが、体中の皮膚は垂れ下がり、顔の肉
が半分以上も削げ落ちてしまっている。着てい
る服は赤黒く染まり、その表面では、蛆虫が活
発に身を震わせている。生物は、呆けたような
唸り声を上げながら、ベレッタを持った男に歩
み寄った。
 また、銃声。立て続けに二発。生物の胸元に
命中する。血が飛び散って、黒いストリートを
濡らした。生物が前傾し、地面にうつ伏せに倒
れた。その体が軽く痙攣している。
 ベレッタを持った男が、頭にたまった汗を手
の甲で拭った。その生物が死んだかどうかを確
認するためか、近づいていく。
 男が十二分に近づいた瞬間――、男の足首を
生物の手が掴んだ。男が叫び声を上げた。ベレ
ッタを構えるも、足をすくわれて仰向けに倒れ
てしまう。銃声が、空に吸い込まれて行った。
生物が、男の上にのしかかる。口を開けると、

白い糸が垂れた。その歯が、男の喉笛を食い千
切る。鮮やかな血柱が上がった。男の全身が一
度、大きく痙攣する。生物は遠慮を知らない。
男の顔に噛みつくと、眼の辺りからまとめて肉
片を奪った。
 男は叫びたかっただろう。せめて、叫ぶ事で
苦痛を紛らわせたかっただろう。だが、喉のな
い彼には、声帯を震わす事などできなかった。
血の泡が、口の中に溢れている。
 私は人間の心を持っている事を、心底後悔し
た。口の中に、例の嫌な臭いが戻ってきた。そ
れを吐き出す。胃の内容物は、何もでなかった。
えづく音だけが、胃から絞り出た。その音を感
知して、食事中だった生物が顔を上げた。その
口端には、男のものであろう眼球がぶら下がっ
ている。
 私は飛んだ。方向など考えず、がむしゃらに
逃げた。これは、食中毒などではない。得体の
知れない何かが、街の底で蠢いている。そして、
それはすでに、その凶悪な牙を街の至るところ
に突き立てているのだ。
 逃げた方が良い。本能がそう告げた。だが、
それでも私はこの街から離れたくなかった。人
としての意識が、この街に故郷を見出している
のかも知れない。たった一ヶ月だが、私は初め
て安住する場所を見つけたのだ。この街を離れ
たくない。だからといって、こうして、街の中
央を旋回しているのは危険だ。なぜなら、私の

彼女のように、狂った島類がいつ襲ってくると
も限らないのだから。
 私を匿ってくれる人はいないだろうか。でき
れば、リックと同じくらい親切で、親愛な視線
を投げかけてくれる人物。そう、彼だ。
 東に向かった私は、見下ろすシティの変貌に
驚かされた。ストリートに人の姿は無く、家々
の扉は固く閉さされている。けばけばしいネオ
ンが、逆にこのゴーストタウンの不気味さを際
立たせていた。闇の中を何かが蠢いている音だ
けが、妙に重く残っている。そう、あの粘りつ
くような足音、低い呻き声。
 レストランの裏口に着地すると、そこも、例
の臭いで満たされていた。臭いの元が、間近に
ある。二、三歩跳ぶと、道の脇で口を開けてい
る排水溝に行き着いた。奥の暗闇から、水の流
れる音と、例の臭いが感じられた。そして、何
か、巨大な何かが闇を這いずる音も。
 私は身震いして、穴から遠ざかった。
 レストランの裏口を、二、三度突っついてみ
るが、返答が無い。いつもならば、すぐにマー
チンが出てきてくれるはずなのに。今度はもっ
と強く突いてみる。すると、ドアが微かに開い
た。建がかかっていなかったのだ。
 私はその隙間から、首を入れた。そこは、い
つもマーチンが働いているほ房になっている。
料理をする音も、人の話し声も聞こえない。換
気扇の回る音だけが聞こえている。誰もいない
のだろうか? 隙間から、身を滑り込ませる。
 厨房の中は、やけに寒かった。よく磨かれた
銀色の設備を見上げながら、周囲を見渡す。人
の気配は感じるが、次は無い。レストランの店
内ものぞいたが、オレンジ色の照明が灯ってい
るだけで、客の姿は無かった。無人のレストラ
ンには、空調の音だけが響いている。マーチン
はどこに行ったのだろう。あの優しい笑顔で迎
えてくれるはずの、マーチンがいない。まさか、
マーチンも……。
 私は誰もいない厨房に戻って鳴いた。何度か
鳴いていると、厨房の奥の方で物音がした。音
のした方角に進むと、厨房の奥にある銀色の大
きな扉に突き当たった。そのがわずかに開い
ており、冷たい風が外に漏れている。扉の上に
は、「冷凍庫」と記されていた。
 瞬間から顔を入れると、広い通路になってい
る冷凍庫の内部が見渡せた。真っ直ぐに続いた
通路の左右には、食材を並べた棚が並んでいて、
突き当たりから左に道が折れている。その奥か
ら、奇妙な物音が聞こえてきている。規則正し
く続く、そのゆるい響きは、生理的な嫌悪を感
じさせた。
 私はその音を確かめるため、凍えるような空
間を進んだ。突き当たりで左に折れると、その
先はすぐ行き止まりになっていて、壁に向って
蹲っている人物がいた。その大柄な後ろ姿から、
マーチンであると判った。黒い頭が上下してい

る。その動きは、私が餌を啄む時のそれとよく
似ていた。
 私は囁くように鳴いた。マーチンの背が微か
に震えた。ゆっくりと私の方角に向き直る。彼
の口の周りには赤黒い細かな肉片がこびりつき、
呆けたように開けた唇の隙間から、食べかけの
肉塊が見えた。それは唾液と混ざり合って、ゼ
リーのように鈍く光っていた。
「フレンド」
 マーチンが呟いた。
「おいで、ふ、フれ、フレンど。こっちこちへ、
おいおいで?」
 私は、その誘いに乗らなかった。彼の右手に
光る包丁の輝きは、明らかに殺意を感じさせる
ものだったからだ。彼が何を食べているのか、
私には判らなかった。また、知りたいとも思わ
なかった。私は慌てて、レストランの外へと飛
び出した。
 帰る場所も、安心できる場所も失った私にと
って、頼る事のできる人物は、もはや一人しか
いなかった。私は、彼の職場である警察署を目
指して飛んだ。そして、その道程で、私は幾つ
もの惨劇を目の当たりにする事になったのであ
る。
 あの人の形をしたモンスターが、静かに、そ
れでいて大胆に行動している事が、空から見る
とよく判った。彼らは食肉を手に入れるためな
らば徒党を組み、女、子供、時には赤ん坊さえ

も分け隔てなく的にかけた。なんとか生きなが
らえた正常な住人らは、皆、警察署を目指して
いるようだったが、無事に辿り着ける者など一
人としていなかった。
 私が警察署に着いた時、正門が開いて、何台
ものパトカーが、唸り声を上げて飛び出してき
た。私は先頭のパトカーの運転手を見て、それ
がリックである事を知った。パトカーに乗って
いる誰もがみな、完全武装している。その血ま
みれの車体から見て、状況は相当に切迫してい
るようだった。私が眠っている間にも、幾度と
無く彼らのミッションが行われたのだろう。
 門の上に止まって、出動して行くパトカーを
見つめていた私は、最後尾のパトカーの助手席
に座っている人物を見た。それは、若い女性だ
った。茶色のセミロングに、やや細めの輪郭
顔の形こそ整っているが、その目つきは相当に
鋭い。彼女の着ている制服は、他の者とは少し
違っている。動き易さを重視してか、防弾チョ
ッキなどの防具をほとんど身につけていないの
だ。場慣れしているのか、ひどく落ちついてい
るように見えた。
 その女の顔を見た瞬間、私は、今まで頑とし
て沈黙を守っていた啓示が、突然燃え上がるの
を感じた。目の前で、火花が飛び散る。脳内で、
何万という閃きがぶつかり合った。そして、そ
れは告げた。
『私は、あの女を知っている』
 そして、それがひどく不快な経験である事を、
吐き気のするような胸のむかつきから知った。
あの女の、燃えるような闘志を秘めた瞳を思い
出すだけで、全身の血が逆流するかのようだっ
た。
 私は迷う事無く、パトカーを追った。あの女
の事をもっと知りたい。一体、何者なのか。そ
して、かつての私とどのような関係にあったの
か。私が啓示をあやかるのに足りなかったもの
を、彼女が埋めてくれるような気がした。
 パトカーのサイレンが止まったのは、街の東
側、マーチンのレストランの近くだった。パト
カーは、ストリートに脇腹を向けるようにして、
そっぽを向いて止まっている。それを数台重ね
て、あたかも壁のように利用しているのだ。
 警官隊が銃を片手に、パトカーから降りる。
リックも、そしてあの女も車から降りた。
 私はレストランの側に建っている、五階建て

ビルの屋上を囲んでいるフェンスの上に止まっ
て、彼らを見下ろした。あの女と同じ車に乗っ
ていた口髭を生やした男が、手を上げて、招く
ような仕草を見せた。警官らが、彼の周りに集
まる。彼が長であるようだった。私は体を傾け
ると、耳を澄ませた。かなり小声で話している
が、何とか聞き取れる。
「通報があったのは、この辺りだ。生存者がい
るかも知れない。例のモンスターが出てきたら、
片っ端から片付けるんだ。人と思うな」
 長がミッションの説明を始めた。どうやら、
まともな人間が、まだこの辺りにいるらしい。
その人物を救出して、署に連れて帰るのが目的
なようだ。
「単独行動は絶対に避けろ。二人一組で行動。
リックとジムはここで待機だ。リック、いいな。
あれは人じゃないんだぞ。昨日みたいなミスは
するな」
 呼ばれて、リックが渋々頷いた。
「五分後に集合する。ジル、先頭に立ってくれ」
 例のセミロングの女が無言で頷いた。ジルと
いうのか、あの女。残念ながら、その名前につ
いては何も感じない。名前を聞くのは、これが
初めてな気がする。
 あの女、ジルはベレッタを片手に、パトカー
のボンネットを踏み越えて進んだ。その後を、
ショットガンなどで武装した警官隊が続く。彼
らは二人一組で、八方に分かれて、近くの建物
の中へ入って行った。リックと、リックと同じ
位の歳の青年は、パトカーの壁を隔てて背を向
け合い、ベレッタを片手に注意深く辺りを見渡
している。
「なあ、リック。さっき、ジョージも言ってい
たけれど、頼むから発砲してくれよ」
「判っているよ、ジム」
「ま、相手が一般人だからな。お前の気持ちは
判らないでもないよ。全く、なんでこんな事に
なっちまったのかねぇ」
 ジムと呼ばれた男が、肩をすくめた。
「僕達が悪いのさ。例の事件から帰ってきたジ
ル達の言う事を信じなかった。あの時、彼らの
忠告を聞いていれば……」
「そりゃあ、無理ってもんさ。誰も信じやしな
いぜ。目の当たりにしている俺でさえ、まだ半
信半疑さ。ま、何にしても、生き延びなけりゃ
ならねえだろ。特にお前さんは、署で待ってい
る可愛い彼女のためにもな」
「ああ。そうだな。彼女のためなら」
 リックはそう呟くと、ベレッタの腹を指で撫
でた。
 やがて、捜索に出ていた連中が、暗い面持ち
で帰ってきた。
「遅かった。通報した女性は、もう駄目だった。
他に生存者はいないようだ」
 長が溜息を吐いて、かぶりを振る。
「ここも、もう危険だ。すぐに退却する」
「そうもいかないようよ。食事の時間みたい
ね?」
 ジルが、ストリートの先を睨んで言った。粘
りつく足音、間の抜けた唸り声が奥の暗がりよ
り迫ってくる。上から見ている私には、暗闇で
身動きする人影がはっきりと見えた。
「配置につけ!」
 隊員は散開して、パトカーの壁に身を隠して、
銃を構えた。
 薄暗い街灯に照らされて、十を越える人形が
ストリートに浮び上がった。頼りなく左右に揺
れながら歩くその影は、皆、うつろな赤い瞳を
持っている。
「まだだ、もっと引きつけてから……。よし!
撃て!」
 横一列に並んだ銃口が、一斉に火を吹いた。
花火でも打ち上げたかのような破裂音が、空高
く突き上がる。先頭を歩いていた人影が、大き
く上半身を仰け反らせた。それでも、何とか踏
みとどまって、なおも前進を続ける。
 傍観していた私は、リックの銃口から硝煙が
出ていない事に気づいていた。他の連中は、目
の前の敵に必死で気がつかないようだが、彼だ
けは発砲していない。遠目から見ても、銃を握
る手が上下に揺れているのが判る。
「もう一度だ! よし、撃て!」
 再び、銃声。音が重なって判りにくいが、間
違いなく人数分より一つ少ない。先頭の人影が、

執拗に前進して、警官隊の向けたライトの光に
その姿をさらけ出した。
 ……なんという事だ!
 その人物は、右手に包丁を持ち、ただれた黒
い皮膚の下に、懐かしい面影を残していた。そ
れは、私のフレンド、マーチンだったのである。
彼の薄汚れた白い調理服の胸部には、幾つもの
小さな穴が空いている。
「くそっ! 退却だ!」
 長が叫んだ。みな、一斉に動き出す。いや、
一人出遅れた。震える銃口をマーチンに向けて、
危機迫った顔をしている人物だ。
「リック! 何やってんだ! 乗れ!」
 ジムがパトカーの中から叫んだ。リックが弾
かれたように、我に帰る。だが、もう遅い。マ
ーチンはパトカーの壁の隙間を縫って、リック
の正面に立っている。後続のモンスターらも、
もう壁の手前まで迫っていた。逃げようとする
リックに、大柄なマーチンの体が覆い被さる。
 絶体提命の瞬間、何者かがその間に割って入
った。ショルダータックルでマーチンの体を突
き飛ばす。茶色のセミロングが揺れた。銃声が
三発。マーチンが前のめりに倒れ込んだ。
「下がって! まだ生きているわ!」
 そう叫ぶと、マーチンの後頭部めがけて、更
に一度発砲した。黒い頭が割れて、赤い血潮が
溢れ出す。蒼くなっているリックの隣で、ジル
が硝煙の立ち上るベレッタを下に向け、冷たい
視線を落としている。
「早く乗って!」
 ジルがリックの制服の袖を引っ張った。リッ
クが、ジムの運転するパトカーに転がり込む。
ジルはウインドウに腰掛けるように、助手席に
両足を突っ込むと、上半身を出したまま、銃を
持った右腕を大きく振り回した。パトカーが一
斉に動き出す。狭いストリートの中でうまく車
体を移動させると、署に引き上げて行った。
 青と赤の混ざったサイレンの明かりが見えな
くなると、私はひどく複雑な気分になった。
 マーチンが殺されて悲しいのか、リックが助
かって嬉しいのか、マーチンを殺したあの女が
憎らしいのか、喜怒哀楽が混ざり合って、よく
判らなかった。例のモンスターどもは、獲物が
いなくなると、仕方がないように、倒れている
マーチンの体を貪り始めた。それを最後まで見
ているほど、悪趣味ではない。私はフレンドの
死に哀悼の意を捧げると、パトカーの後を追っ
た。
 数時間後、悪夢を残したまま、夜明けはやっ
てきた。旭光の輝き渡ったラクーンシティの街
並みは、いつもとなんら変りのない、平穏な装
いをしている。空は腹立たしいほどに澄み渡り、
涼風が警察署の屋上を撫でて行った。
 欄干に止まって、哨戒を行なっていた私は、
腫れぼったい目を幾度か瞬きさせた。好きで寝
ずの番を買って出たわけではない。ただ、眠れ
なかっただけなのだ。
 昨日は色々な事があったせいか、記憶してい
る映像が重なって、それぞれのシーンがぼやけ
てしまっている。それは同じようなジャンルの
映画を立て続けに見た時と同じだ。終ってみれ
ば、どれがどれなのかよく憶えていない。ただ、
面白かったか、つまらなかったかだけである。
もちろん、私の場合は、不快な気持ちだけが残
っている。
 あの出動を最後にして、現在に至るまで、署
内に動きは見られない。あのジルという女も、
リックも姿を見せない。皆、死んでしまったか
のように、署内は静まり返っていた。
 正午を過ぎる頃、屋上にある貯水タンクの陰
で、厳しい陽射から逃れていると、錆びた金属
の軋む音がして、屋上のドアが開いた。タンク
から、そっと顔を出して見ると、それがリック
と、かつて公園で一度だけ見た事のある、ブロ
ンドの髪の女性である事が判った。
 二人は欄干の所まで歩いて行くと、身を寄せ
合って街を眺めた。
「静かね、この騒ぎが嘘みたい」
 女性が一言そう呟いた。
「ねえ、あなたのパパは、まだここに来てない
の? 大丈夫かしら?」
「……大丈夫さ。ああいう性格だからね。わざ
わざこんな所まで逃げて来やしない。うちはガ
ンショップだから、武器も沢山あるしね」

「そう……」
 沈黙が落ちる。何だか、私は居づらくなって
しまった。
「……シンディ、君のママには」
「いいの。言わないで」
「いや、ずっと、気になっていたんだ。もう少
し早く、君の家に駆けつけていれば」
「馬鹿ね、そんなこと、気にしないで。あの時、
あなたが来てくれなかったら、私は今こうして
いられないのよ」
「でも、ここもいつまで持つか判らない。未だ
に街の外へ交信できないし、救援も来ない。結
局、僕らも……」
 リックが、その言葉を飲み込んだ。
「ねえ、どうして街の外と交信できないの?」
「判らないんだ。何者かが、街の中で妨害電波
を発しているとしか思えない。それも、小規模
なものじゃない。軍隊の連中が使うような、ハ
イテクノロジーな奴だ。電話も、無線も、何も
かも通じない。かといって、あの化け物どもの
巣を抜けていく事なんてできやしないしね」
「一体、誰が妨害電波なんて?」
「さあ……、この事件を公にしたくない何者か
の仕業だって、ジルは言っている。何にしても、
それを見つけない事には、僕らは助からないん
だ。だから、ジョージはジルにそれを見つける
任務を与えた。今、彼女は単身、街に潜入して
いる」
「ジルって、あの女の人?」
「そうだ。あの茶色のセミロングの人だよ」
「彼女、強い人ね。この騒ぎにも全く動じてい
ない」
「経験者だからね」
「経験者?」
「一ヶ月ぐらい前に、彼女は郊外でこれと似た
ような事件に巻き込まれている。その時、あの
化け物どもの犇く場所から逃れる事ができたの
は、特殊部隊の連中でさえ五人だけだった。そ
の内の一人があのジルなんだよ。彼女は生存す
る術を心得ている。僕も何度も助けられた」
「でも、今、その彼女は任務のために、ここを
離れてしまっているんでしょう? もし、今、
あのモンスターがここにやってきたら」
「そうしたら………。僕が護るよ。君を」
 リックは彼女を強く抱きしめた。そして、二
人は熱く見つめ合う。
 私はその唇が重なり合う前に、身を潜めた。
ここが、私の人間らしいところだと思う。同時
に、ひどく寂しさを感じたのもそのせいだ。
 人は自分が孤独であると感じると、一ヶ月も
生きてはいられないらしい。自分を理解してく
れる者がいなければ、生きる事などできないの
だ。私は自分自身さえ、理解していない。ジル
という女に感じるものはあるが、彼女は私とい
う存在を暴く鍵を持っていないようだった。一
体、誰がそれを持っているのだろうか。考えて

いる内に、昨日から御預けを食らっていた眠気
がぶり返してきた。
 瞼を閉じると、そこはまたいつもの光景だっ
た。手術室、高度な機械。ライトの光が遠ざか
っていく。また、あの夢だ。いい加減、うんざ
りだ。
 そんな私の想いが届いたのか、その日だけは
少し違っていた。私は狭い鳥かごの中に入れら
れていた。例の手術室だ。目の前には白衣を着
た男が立っている。リックと同い年ぐらいの青
年である。金髪で、蒼い瞳をしている。その手
に一冊の本を持っていた。
「サンプル1、どうだい、調子は? 僕の言っ
ている事が理解できるかい? よしよし、今日
は『高分子化学の応用』を読んでやろう」
 ……何を言っている?
 場面が変わって、今度は、手術台の上である。
私の前に立つのは、目つきの鋭い、白髪の老人
だった。
「サンプル1、君の役目は判っているね? 君
は特別なんだ。君は彼らを統率するために生ま
れてきたんだよ。カラスにはカラスのリーダー
が必要だ。私の言っている事が判るね? よし
よし、良い子だ」
 頭が……割れそうだ。視界が暗くなっていく。
最後、それが途絶える寸前に、私は見た。赤黒
く染まった、森林の中に寂しく佇むその館を。
そして……あれは……、あの人影は……。


 5章 黒い牧師〜結婚

 睡眠の状復を仮死状態というならば、私の魂
は強引に呼び戻されたというべきだ。実際、魂
と呼ばれる私の意識は、異常事態を感知した体
に引っ張られて器に押し込められた。感覚が体
に戻ると、全身の毛が逆立っているのが判った。
鼻は、警察署の屋上に漂うひどい臭いを捉えて
いる。例の腐敗臭。あのモンスターが近くにい
るのだ。
 目を開くと、すでに辺りは暗くなっている。
暗澹とした空に、粘着性のある音が響いている。
その音は、かつて無いほどに多い。一瞬、飛び
上がろうかと思ったが、思い直して止めた。私
はいつでも逃げられる。リックの方が心配だっ
た。
 私は猫のように、忍び足で貯水タンクの陰か
ら出た。屋上を見回す。人影は無く、粘りつく
ような、あの足音も聞こえない。では、この臭
いは一体? 欄干を潜って屋上の縁まで進むと、
首だけを伸ばして下を見やる。建物に群がる、
生無き人の影を見た。臭いは、地上から立ち上
ってきていたのだ。
 それは突然に始まった。ガラスの割れる音と
ともに、階下で銃声が轟いた。悲鳴と唸り声が
交わり、けたたましい警報が署内に鳴り響いた。
同時に、シティの東で爆発が起こった。比較的
小さな爆音から察するに、爆発したのは車か何
かだろう。それらはあらかじめ計画されていた
かの如く同時に起こった。あの化け物どもが団
結する可能性は十分にあり得る。彼らの全ては、
あの旺盛な食欲に向けられているのだから。そ
して、餌はここにある。
 そんな非常事態にも関わらず、私は呆然と、
その成り行きを見つめる事しかできなかった。
署内の様子を見ようにも、屋上のドアは鉄製で
固く錆びついていたため私の力では開けられな
い。窓は全て閉じられていて、侵入することは
不可能だった。私にできることは、ただリック
の無事を祈る事だけだったのだ。
 それから後はよく憶えていない。度重なる絶
叫が消えて、すすり泣く声も消えた後、私は屋
上の欄干に止まって、間抜けのように、ただ空
を眺めていた。
 どうしてだろう? どうして、こんなことに
なったんだろう? そういえば、同じ台詞を言
っていた人が居たっけ。誰だったのかな、あれ
は。どうでもいいや、もう。
 私は穏やかな時を楽しんだ。久しぶりの平穏。
少し臭いはきついけれど、涼しい風が吹いてい
る。苦しみの果てに見える、諦観という名の現
実回避。
 そんな時、背後で物音がした。金属が鈍く擦
れ合う音。屋上のドアが開いて、その二人は現
れた。リックは、シンディに肩を借りて、その
体を必死に支えている。今にも倒れそうになり
ながら、二人はなんとか屋上の真中までやって
きた。そして、力尽きて倒れ込む。
 シンディがよろめきながら起き上がり、リッ
クの体を仰向けにした。リックの胸が激しく上
下に揺れている。遠方で輝くネオンが、朱に染
まったリックの胸を照らした。
「しっかりして。リック」
 シンディがリックの頬を、血に染まった両手
で挟む。
「応えてよ、ねえ!」
 リックの体が、少しだけ上下に動いた。上体
を起こそうとしたのだろうが、それはもう叶わ
ないようだった。
「ごめんよ、シンディ。やっぱり、僕には、人
を撃つことなんて……、できや、しなかった。
な、情けないよ。もう、君を護ることも……で
きや…」
「もういい。もう、いいの。ねえ、ここから逃
げましょう? 結婚するんでしょう? 私達、
夫婦になるんでしょう? リック、あなたを愛
しているの。置いていかないで」
「そうだ……、結婚するんだ」
 シンディが震える唇を、笑みに歪める。
「素朴なのでいいのよ。今、ここで、二人きり
で、愛の宣誓をしましょう?」
「でも、牧師が……、いないよ?」
「牧師……?」

 シンディが困ったように、眉をひそめた。顔
を上げる。欄干に止まっていた私と、目が合っ
た。
「いるじゃない、ほら。真っ黒な牧師が」
 リックが体を少し反らせる。私を見て、微笑
んだ。
「本当だ。じゃあ、誓おう。僕は君に、終生の
愛を誓う。君は?」
「もちろん! 愛しているわ。リック」
 シンディの上体が、リックに覆い被さる。そ
して、彼は逝った。
 もう動くことのない夫を見下ろして、シンデ
ィは呆然としている。何を思ったのか、夫の腰
にあった、使わずのベレッタを抜き放った。
「リック、あなたをあんなモンスターになんて
させやしない」
 銃声が、こだました。夫のこめかみから、一
筋の赤い血潮が吹き出した。そして、シンディ
は、自分のこめかみにも銃口を向けた。銃声。
夫の腕に抱かれるように、妻は倒れ、息を引き
取った。


 終章 黒い牧師〜葬式

 今、私は、火の海になっている街を背にして、
リックのポケットから落ちたオルゴールに聞き
入っている。それは、延々と、同じメロディを
繰り返している。私は、いつまでもこうしてい
たかった。目の前にある現実を認めてしまった
ら、頭がおかしくなってしまう気がした。だが、
願いとは裏腹に、オルゴールの音色は危うくな
り、ついには途絶えた。まるで、この街の運命
のようだった。そして、もう螺子を巻く人間は
いない。
 私は、どこか遠くへ行こうと思った。過去を
捨てて、この街を捨てて、どこかで平穏に暮ら
すのも悪くない。新しい友達を探して、新しい
恋人を探して、幸せになりたい。それが、目の
前に横たわる二人の意志でもあるような気がし
た。
 だが、裁きの鉄槌は今、私の上にも落ちよう
としている。鋭い聴覚が、開け放たれた屋上の
ドアの先、階段を上がってくる人間の足音を捉
えていた。あのモンスターの足音ではない。し
っかりと地を踏みしめた、人間の足音である。
獣の勘というものも、時には素晴らしいもので、
私にはそれが誰であるか判っていた。
 その人物が屋上に現れた。茶色いセミロング、
初めて見た時よりはラフな格好をしている。手
に持っているのは、ベレッタではなく、身の太
いナイフだった。両肩にかけたサイドパックか
ら、ベレッタの尻がはみ出ている。
 彼女は平静な顔に警戒の色を漲らせて、屋上
の様子を見渡した。そして、真中で倒れている
リックとシンディを見つけた。そして、その間
にいる私を見つけて、顔を引き撃らせた。ジル
は何も言わずに近づいてくる。きっと、彼女に
は、餓えたカラスが餌をあさりにきたように見
えた事だろう。
 私は、ジルに向って鳴いた。「私じゃない」
と言いたかった。彼女はある地点まで達した瞬
間、サイドパックから拳銃を抜いた。私は慌て
て飛び上がる。銃声とともに、私の左こめかみ
を何か堅い物が掠めていった。痛みはほとんど
感じなかった。ただ、熱かっただけである。温
かいものが屋上のコンクリートに滴り落ちる。
私は古傷が開いた事を知った。同時に、私は瞳
の奥に焼きついた光景を、まるで映画でも見て
いるかの如く思い出したのである。
 私は、とある研究所で生まれたサンプル1、
知を与えられたカラスどものリーダーであった。
私の役目は、私と同じく研究で生まれた同胞達
を導く事であった。私は、その研究室で事故が
起き、人間達がいなくなった後も、カラス達の
リーダーとして、彼らを統率した。その時に、
その女が現れたのだ。
 その女は、今と同じように、私を見上げてベ
レッタを構えていた。少し変わった制服を着て
いて、蒼いベレー帽をかぶっていた。私達がい
たところは、警察署の屋上ではなく、どこかの
屋敷のテラスだった。彼女の足下には、原形を
留めていない仲間の死骸があった。彼らは、わ
けも無く凶暴だったのではない。例のテラスは、

私達皆の縄張りだったのだ。私は怒りに震えた。
その女は、ずうずうしくも人の縄張りを侵して、
更には親友を殺したのだ。
 私は尾っぽに火でも点いたかの如く鳴き叫ぶ
と、彼女目掛けて滑空した。一瞬遅れて、轟音
が耳を掠める。私はこめかみに猛烈な熱さを感
じて体勢を崩し、テラスから落下した。地面に
激突する寸前、最期の力を振り絞って、風に乗
った。後は何も無い。空白だった。
 フィルムは切れて、目の前が真っ暗になった。
それ以降しばらくの間は、私はただのカラスに
戻っていたのかも知れない。そして、あの蒼空
の高みで、例の臭いを嗅ぐ事によって、人とし
ての意識を取り戻したのだろう。その後、一時
の安息を手に入れた。新しい友も得た。人間の
知り合いもできた。なのに! なのに、お前は、
また私の邪魔をするのか!
 忘れていた凶暴性が、背筋を駆け上って脳天
に達した。私は上空から、その女を狙った。彼
女の射撃の腕前はよく知っている。正面から行
って、勝てる相手ではない。銃口をよく見て、
弾道の予測を行ない、確実にそれをかわす。あ
の時もそうだった。彼女のベレッタの弾は、私
から見て右に曲がる。彼女の持つ拳銃はワンオ
プサウザンドではない。だからこそ、彼女の腕
が正しければ正しいほど避け易くなる。例え、
彼女がそれを計算に入れて撃ったところで、弾
道まで変えられまい。彼女がトリガーを引く寸
前、私は左側に逃げれば良い。
 そして、実際、それはうまくいった。
 銃声の後、私は無傷のまま、無防備なジルの
頭上に舞い降りた。嘴で、その首筋に一撃を見
舞ってやる。鮮血がほとばしり、ジルが悲鳴を
上げて膝をついた。並のカラスと一緒にしても
らっては困る。なにせ、私は考える事ができる
のだから。人間のどこが弱いかも知り尽くして
いる。私は、ジルの髪を両足の爪で掴んで、顔
を引っ張り起こした。頭の天辺目掛けて、嘴を
振り下ろす。
 これで全てが終る。そう確信した瞬間、私は
バランスを崩した。ジルが突然起き上がったの
だ。白い線が、目の前を掠めた。それは、ジル
が反対の手に握っていた、ナイフの切っ先だっ
た。その一撃で、私の左翼は根元から切り裂か
れていた。そして、ベレッタの銃口を目の前に
突きつけられた。
 その音は、高く響いた。私は力なく、空を泳
いだ。初めて彼らに会った時のように、リック
とシンディの足下に滑り落ちる。銃弾は、私の
胸を貫いていた。痛みは無かった。
 足音が近づいて来る。あの女が、とどめを刺
しに来る。どうせ、勝ち誇っているのだろう。
見るがいい。お前の蹂躙した者の顔を。
 私は、その悪魔のような顔を見てやるために、
最期の力を振り絞って顔を上げた。
 ところが、彼女は勝ち誇ってなどいなかった。
むしろ、その表情は哀しげでさえあった。その
瞳は、どこかで見た事がある。そう、それは、
シンディがリックの死をみとった時の瞳だった。
彼女はリックとシンディの幸福そうな顔を見下
ろして、寂しそうに微笑んだ。
 その顔を見て、私は思わず苦笑してしまった。
よく考えてみれば、あの館で私がした事は、今、
彼女がした事と何ら変りが無いではないか。彼
女は、リックとシンディの仇を討つために、私
に攻撃を仕掛けたのだ。結果こそ違えども、あ
の時と全く同じではないか。彼女は私に似てい
ると思った。あるいは、私が彼女に似ているの
かもしれない。ただ、私も彼女も、左も右も判
らない境遇の中、大切なものを護りたかっただ
けなのだ。
 彼女はしゃがむと、私の側に落ちていたオル
ゴールを手に取った。その螺子を巻く。再び、
オルゴールから音が弾き出された。まだ、螺子
を巻く人間が残っている。そう思うと、私はと
ても嬉しくなった。
「良い音色ね。とても、懐かしい」
 ああ、私もそう思う。とても、良い音色だ。
送葬曲にしては特異だけれど、だからこそ私に
とっては、お似合いだ。なぜなら、私はカラス
なのだから。人の心を持った、特異なカラスだ
ったのだから。

                  end
※文中で使われている「噛」という漢字の【歯】の部分は、実際には複雑なほうの漢字が使われている。
※同様に「掴」という漢字の【国】の部分は、実際には【國】が使われている。
※電撃hp Volume 17、本編はP162〜P181。ただし関連ページ込みならP160から。